大谷派の歴代宗務総長
宗務総長とは
宗務総長の職務については、真宗大谷派宗憲第五十二条で「宗務総長は、内局を代表して、議案を宗会に提出し、宗務について宗会に報告し、並びに職制によって宗務の各部を統理する。」と定められる。簡単に言うならば、要するに「宗務総長」とは、国政における首相のポジション。
ちなみに、国政で言う内閣のことを「内局」、大臣のことを「参務」、官僚のことを「宗務役員」、国会のことを「宗会」と呼ぶ。宗会は、有教師の僧侶から構成される「宗議会」と、門徒から構成される「参議会」の二議会による両院制の形式を取っている。また、国政における象徴天皇制とほぼ同様に「象徴門首制」をとっており、門首は宗務執行の権限を有さない。
歴代宗務総長の一覧
超かきかけ
歴代 | 氏名 | 備考 | 就任 | 辞任 | 所属寺 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 篠原 順明 | 1904 | 1904 | ||
2 | 石川 舜台 | 1904 | 1905 | ||
3 | 大谷 勝信 | 1905 | 1908 | ー | |
4 | 大谷 瑩誠 | 1908 | 1914 | ー | |
5 | 豅 経丸 | 1914 | 1915 | 西念寺 | |
6 | 阿部 恵水 | 1915 | 1920 | 等観寺 | |
7 | 稲葉 昌丸 | 1920 | 1920 | 徳竜寺 | |
8 | 阿部 恵水 | 1920 | 1924 | 等観寺 | |
9 | 安田 力 | 1924 | 1925 | 法泉寺 | |
10 | 一柳 知成 | 1925 | 1925 | ||
11 | 稲葉 昌丸 | 1925 | 1927 | 徳竜寺 | |
12 | 春日 円城 | 1927 | 1929 | ||
13 | 大谷 瑩誠 | 1929 | 1931 | ー | |
14 | 阿部 恵水 | 1931 | 1936 | 等観寺 | |
15 | 関根 仁応 | 1936 | 1938 | 安養寺 | |
16 | 安田 力 | 1938 | 1941 | 法泉寺 | |
17 | 大谷 瑩潤 | 1941 | 1945 | ー | |
18 | 宮谷 法含 | 1945 | 1947 | ||
19 | 豅 含雄 | 1947 | 1949 | 西念寺 | |
20 | 藤津 契 | 1949 | 1950 | ||
21 | 浅平 宗成 | 1950 | 1951 | ||
22 | 暁烏 敏 | 念仏総長 | 1951 | 1952 | 明達寺 |
23 | 末広 愛邦 | 1952 | 1956 | ||
24 | 宮谷 法含 | 1956 | 1961 | ||
25 | 訓覇 信雄 | 同朋会提唱 | 1961 | 1964 | 金蔵寺 |
26 | 蓑輪 英章 | 1964 | 1966 | ||
27 | 訓覇 信雄 | 開申事件 | 1966 | 1970 | 金蔵寺 |
28 | 名畑 応順 | 1970 | 1970 | 養泉寺 | |
29 | 三森 言融 | 1970 | 1971 | ||
30 | 星谷 慶縁 | 1971 | 1972 | ||
31 | 鈴木 悟 | 1972 | 1973 | ||
32 | 末広 愛邦 | 1973 | 1974 | ||
33 | 嶺藤 亮 | 1974 | 1980 | 改観寺 | |
34 | 五辻 実誠 | 1980 | 1984 | 本浄寺 | |
35 | 古賀 制二 | 1984 | 1989 | 浄泉寺 | |
36 | 細川 信元 | 1989 | 1994 | ||
37 | 能邨 英士 | 1994 | 1998 | 勝光寺 | |
38 | 木越 樹 | 1998 | 2001 | 光専寺 | |
39 | 三浦 崇 | 2001 | 2003 | 覚通寺 | |
40 | 熊谷 宗恵 | 2003 | 2008 | 仰西寺 | |
41 | 安原 晃 | 2008 | 2012 | 安淨寺 | |
42 | 里雄 康意 | 2012 | 2016 | 緑林寺 | |
43 | 但馬 弘 | 2016年12月9日 | 2021年9月23日 | 興宗寺 | |
44 | 木越 渉 | 2021年10月15日 | 光専寺 |
親鸞聖人の生涯
この記事はそんなあなたのために書きました。
このシリーズでは、その内実を詳しく尋ねていきたいと思います。
親鸞の生涯概論
問 宗祖親鸞聖人の生涯を一言でまとめるならなんという言葉がありますか?
真宗大谷派宗憲前文にて「宗祖親鸞聖人は、顕浄土真実教行証文類を撰述して、真実の教たる佛説無量寿経により、阿弥陀如来の本願名号を行信する願生浄土の道が、人類普遍の救いを全うする普遍の大道であることを開顕された。」とまとめられています。
丁寧に要点をすくって簡潔にまとめられていますが、予備知識がないとこれだけでは了解しづらいかもしれません。
問 親鸞の生涯を尋ねる方法にはどんなものがありますか?
たとえば、以下のよう手段が考えられます。
この記事では、出来るだけ本人の著述から紐解くことを意識していきたいと考えています。しかし、親鸞は自身の生涯をあまり語っていません。そのため、他の資料も適宜活用していきます。
親鸞聖人の誕生
問 親鸞聖人の生年は?
親鸞は1173年に京都の日野の里でご誕生されたと考えられています。幼名は若松丸。
実は、聖人自身は自分の誕生年を直接語っておられません。しかし、著書の奥書にその時の年齢が書かれていることがしばしばありますので、そこからたどることができます。
例えば『三経往生文類』。
問 親鸞の生まれた時代はどのような時代でしたか?
親鸞聖人が誕生された時代は、政治的・社会的・宗教的に動乱の過渡期でありました。
『御伝鈔』に「皇太后宮 大進 有範の子なり」。父は日野有範。大進とは正五位~従五位の中下級貴族である(三位以上が天皇の宮殿に上がることが赦される上級貴族)。
母は同時代資料がなくはっきりとはしないが、吉光女と伝えられています。
四人兄弟で、兄弟全員が出家しました。
問 親鸞自身は誕生のことをどう受け止めている?
ここで注意したいのが、親鸞聖人本人の著作においては、29歳のとき法然上人に出会うまでのことをほとんど語られないということ。
私たちは聖人がどうして浄土の仏門を歩むことになったのか、そのことに興味がわいて知りたがるわけですが、本人はそのことを殆ど知らせてくれないのです。
ただし視野を広げて「人間として生まれる」ということの苦悩についてはしばしば語っていらっしゃいます。
たとえば、主著『教行信証』の「行巻」の中で、『楽邦文類』の
ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸の頃に、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつれば、万劫にも復せず。この時悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまわん。
という文章を引用しています。
仏道への発心
問 親鸞はいつ最初の出家をしたのですか?
出家とは、これまでの生活を棄て、退路を断って仏門に入ること。
1181年(治承5年)、京都東山の青蓮院にて出家。数え年で九歳の時でした。範宴の名を名乗る。
ちなみに、大谷派で得度が9歳以上なのもこれに倣ったものです。
(『御伝鈔』によれば)叔父である日野範綱につれられて、慈円の元で出家。慈円は九条兼実(月輪殿)の弟で当時の天台座主。ただし、下級貴族の出家を九条家の天台座主が執り行なったとは、歴史的事実としては疑わしく一考の余地がある。
出家時にうたったと伝わる「明日ありと 思ふ心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かむものかは」という和歌が知られる。ただし、この和歌の初出は江戸時代であり、歴史的事実とは考えがたい。
問 親鸞はなぜ出家したのですか?
どうして親鸞はその決断をしたのでしょうか。
実は、その「事情」については、諸説ありますがはっきりとしません。
身内に不幸があったとか、当時の貴族の習慣とか、いろいろな説が唱えられていますが、確定的な説はありません。ともかく「何らかの事情」により、9歳で比叡山に出家したのです。
比叡山での修学
問 親鸞が入山した比叡山とはどのような学場でしたか?
比叡山とは最澄が開いた天台宗の学場です。もともと「一乗止観院」といい、誰にでも開かれる「一乗」の仏教を学ぶ場所でした。
三車火宅の譬喩などが説かれる『妙法蓮華経』(法華経)を説くことが釈尊の出世本懐としてもっとも大切にしていました。
当時、仏教は最上級の学問であり、なかでも比叡山はその総合大学のような場でした。
問 親鸞は比叡山でどのような修学に取り組んでいましたか?
比叡山時代の親鸞の活動については、妻恵信尼の著した手紙『恵信尼消息』にみられます。『恵信尼消息』は1921年に西本願寺の蔵にて発見されました。
比叡山では堂僧をつとめていた。
堂僧とは、堂衆と学生(がくしょう)の間の身分。不断念仏などの厳しい行を行っていました。
問 親鸞はいつまで比叡山で修学しましたか?
9歳で比叡山に入った親鸞は、29歳になるまで20年にわたって比叡山の修学に努めましたが、当時の比叡山に問題意識を感じて、29歳にて下山しました。
問 親鸞の下山の理由となった問題意識とは何か?
当時の比叡山は、(本来仏教では関係ないはずの)世俗の身分が物を言い、最澄が開山した当初の理想からかけ離れ堕落していました。
親鸞はここに問題意識をもち、真の一乗の仏教を求めました。
比叡山下山と法然との出逢い
問 六角堂参籠とは何か?
比叡山から下山を決意、六角堂へ参籠します。
道理としては理解できる、しかしそれが自らの上に実を結ばない。
六角堂は聖徳太子が建立した寺院で、久世観音が本尊。「京のへそ石」もある、京都のちょうど中心にある寺院です。
ここで聖徳太子の夢告をうけ、当時「浄土宗」を開き広く知られていた法然のもとへ向かう決断をします。
この夢告の内容については、覚如の『御伝抄』に残されていて、「行者宿報偈(女犯偈)」と呼ばれます。
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
行者宿報にてたとい女犯すとも、我玉女の身となりて犯せられん。一生の間能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしむ。)(『真宗聖典』p.725)
問 親鸞は法然と出会いどうなったか?
法然(法然房源空)の専修念仏の教えが、一乗実現の法であった。一乗実現の法としての念仏。
親鸞自身の述懐
『教行信証』「化身土巻」後序「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑業を棄てて本願に帰す。」
師法然に『選択本願念仏集』と真影が赦される。有力な弟子として。
信心一異の諍論、吉水教団で親鸞が兄弟子と信心について議論。法然の信心と親鸞の心は同じ一つの信心なのか。如来よりたまわりたる信心のため一つ。
承元の法難・関東での活動
問 法然の吉水教団への批判とはどのようなものであったか?
法然は門下に対して七箇条制誡に署名させ天台座主に提出。190名の弟子が署名。親鸞は僧綽空の名で署名。
法然教団9つの過失を取り上げる。
調停には九条兼実の次男九条良経など法然を支持するものが多くいた。
問 承元の法難とは何か?
後鳥羽上皇、熊野詣の間に女官2人が法然のもとに密通し出家していたことが判明。後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、法然が土佐へ、親鸞が越後へ流罪に、弟子四人が死罪に処される。
流罪の詳細は教行信証後序や歎異抄に記されている。ただし親鸞自身はただ仏教が弾圧された出来事として語り、女官密通ほか一連の流れについては一切著作で語らない。
流罪赦免 関東へ。
問 関東での親鸞はどのような活動をしたか?
その後、関東で教化活動を行う。その門弟の一人で常陸河和田の唯円が著したのが『歎異抄』である。
帰洛と著述
問 親鸞はなぜ帰洛したのか?
親鸞は帰洛(京都へ戻った)。
著述活動の本を求めてともいうが、
問 親鸞の帰洛後はどのようなことをしたか?
帰洛後の親鸞の活動としては、熱心な著述活動が有名。
著述活動
帰洛し著述する。
など。
善鸞義絶
帰洛からしばらくして、関東の門弟間で異議がうまれていた。混乱を抑えるため、親鸞は息子の善鸞を関東へ送る。
しかし、善鸞がさらに状況をかき乱したため、1256年、親鸞84歳の時、息子の善鸞を義絶。
この後『浄土論註』へ加点したり、法然の言行録『西方指南抄』を書写するなど、これまで味わい尽くしてきた七高僧の教えにふたたび出会いなおしている。
入滅
1262年11月28日、現在の京都市立御池中学校付近の住居で入滅。
浄土真宗各派概説
浄土真宗の各派について。
真宗十派
旧幕時代からある主要十派のことをひろく「真宗十派」と呼ぶ。
この十派は「真宗教団連合」を形成している。この連合は1923年(大正12年)発足の「真宗各派教団会」が前身で、和訳正信偈で知られる「共通勤行」の制定や、毎年の『法語カレンダー』発行などを行っている。
この連合の目的は『真宗教団連合憲章』第三条にて「真宗教団連合は、親鸞聖人の信仰と教義を基調にして、加盟団体相互の連絡提携のもとに、真宗宣布についての総合的対策を樹立し、真に時代に即応する教化活動を展開することにより、社会の不安と混迷を救い、もって、世界平和の進展と人類永遠の福祉に貢献することを目的とする。」と規定されている。
宗派名 | 本山 | 本山所在地 | 宗主呼称 |
真宗大谷派(お東) | 真宗本廟(京都・東本願寺) | 京都府京都市 | 門首 |
浄土真宗本願寺派(お西) | 龍谷山本願寺(西本願寺) | 京都府京都市 | 門主 |
真宗興正派 | 興正寺 | 京都府京都市 | 門主 |
真宗高田派 | 専修寺 | 三重県津市 | 法主 |
真宗仏光寺派 | 仏光寺 | 京都府京都市 | 門主 |
真宗木辺派 | 錦織寺 | 滋賀県野洲市 | 門主 |
真宗出雲路派 | 毫攝寺 | 福井県越前市 | 門主 |
真宗誠照寺派 | 誠照寺 | 福井県鯖江市 | 法主 |
真宗讃門徒派(山門徒派) | 専照寺 | 福井県福井市 | 門主 |
真宗山元派 | 證誠寺 | 福井県鯖江市 | 法主 |
その他の宗派
十派以外にも浄土真宗を公称する教団はいくらか存在する。その一部を例示する。その多くは十派から分裂した教団である。
- 浄土真宗大谷本願寺派…拠点:東山浄苑(京都府京都市)
- 真宗大谷派より分裂。
「七高僧」について
このページでは、親鸞が仰いだ七高僧について詳しく取り上げていきます。
と言う方にも分かってもらえるよう出来るだけ平易な言葉でまとめています。
七高僧の概要
問 七高僧とは何ですか?
七高僧とは、親鸞が選定したインド・中国・日本にまたがる七名の高僧のことです。
はるか昔の釈尊から念仏の教えを親鸞まで伝えてくださったこの7名を、親鸞はあつく仰ぎ、事績(伝記や思想)を「高僧和讃」や、『正信偈』の「依釈段」など随所に書き留め、今を生きる私たちに伝えています。
問 聖教ではどのように表現されていますか?
たとえば、以下のような表現があります。
- 三朝浄土の大師等(『浄土和讃』三朝=インド・中国・日本)
- 印度西天之論家 中夏日域之高僧(『教行信証』「行巻」内『正信偈』印度西天=インド地域, 中夏=中国, 日域=日本)
- 西蕃月支の聖典 東夏日域の師釈(『教行信証』「総序」西蕃月支=インド地域, 東夏=中国, 日域=日本)
問 具体的には誰ですか?
以下の表に示した七名です。
名前 | 生没年 | 発揮 | 主著 | |
第一祖 | 150頃~250頃 | 難易二道 | 『十住毘婆沙論』 | |
第二祖 | 400頃~480頃 | 一心帰命 | 『浄土論』 | |
第三祖 | 476~542 | 自力他力 | 『浄土論註』 | |
第四祖 | 562~645 | 聖浄二門 | 『安楽集』 | |
第五祖 | 613~681 | 正雑廃立 | 『観経疏』 | |
第六祖 | 942~1017 | 専雑得失 | 『往生要集』 | |
第七祖 | 1133~1212 | 選択称名 | 『選択集』 | |
(参考) | 1173~1263 | 『教行信証』 |
問 七高僧はどう選定されたのですか?
色々な説明の仕方がありますが、伝統的には、下記のような言葉で説明されてきました。
- 著書垂範
- 発揮各説
- 解行相応
すなわち、独自の著書と思想があり、その理念の通りに実践した人物であるということです。
第一祖「龍樹」について
問 龍樹どはどんな人物ですか?
龍樹(150頃~250頃)は南インド生まれの人物で、サンスクリットではNāgārjuna(ナーガールジュナ)といいます。
大乗仏教の祖としてひろく知られています。『十住毘婆沙論』を著しました。
問『十住毘婆沙論』とは何ですか?
龍樹が著した『十地経』(『華厳経』の一部)の注釈書です。
その中の「易行品第五」で、不退転地(阿惟越致)へ至る菩薩道に難行道と易行道があることを明らかにした。これを「難易二道」いいます。
浄土真宗では、この「易行道」に注目します。
第二祖「天親」について
問 天親とはどのような人物ですか。
天親または世親(400頃~480頃)はガンダーラ―(現在のパキスタンの地域)生まれの人物です。
『無量寿経優婆提舎願生偈』(通称『浄土論』or『往生論』と呼ばれる)を著しました。
問『浄土論』とは何ですか?
正式には『無量寿経優婆提舎願生偈』といい、前半は願生偈、後半は長行で構成されています。曇鸞はこの願生偈の部分を「総説分」、長行の部分を「解義分」と明らかにされました。
冒頭で「世尊(釈尊のこと)、我一心に、尽十方無碍光如来(阿弥陀仏のこと)に帰命す。」と一心専念をあらわしました。
法然はこの論を『選択集』の中で浄土三部経とあわせて三経一論として大切にしました。
第三祖「曇鸞」について
問 曇鸞とはどのような人物ですか。
三、曇鸞(タロンアン)
当時の中国は南北朝時代。
四論と仏性について研究、のち『大集経』60巻の注釈に専念し、病に倒れる。不老不死を求めて南朝へ仙経を授けられる。しかし、帰路で菩提流支三蔵と出会い、『観無量寿経』を授けられ、仙経を焼き捨て、浄土教に帰した。
龍樹の難易二道の思想を背景として、天親の『浄土論』を註解して『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』or『往生論註』)を著した。自力他力ということを明らかにした。
一般的には東派では『浄土論註』、西派では『往生論註』と呼ばれることが多い。
この『浄土論註』は上下巻に分かれ、上巻では浄土論前半の「総説分」の部分の注釈を、下巻では浄土論後半の「解義分」の部分の注釈をしています。
第四祖「道綽」について
問 道綽とはどのような人物ですか。
四、道綽(タオチュオ)
道綽(562~645)は中国生まれの人物です。
『安楽集』を著した。仏教を聖道門と浄土門の二つにわかち、浄土門に帰した。
第五祖「善導」について
問 善導とはどのような人物ですか。
五、善導(シャンタオ)
善導(613~681)は中国生まれの人物です。
従来の『観経』理解を改め『観経疏』を著した。古今楷定した。
第六祖「源信」について
問 源信とはどのような人物ですか。
六、源信(恵心僧都)
源信(942~1017)は日本生まれの人物です。
日本に浄土教を普及させた。『往生要集』を著した。
第七祖「源空」について
問 源空とはどのような人物ですか。
七、源空(法然)
源空(1133~1212)は日本生まれの人物です。
親鸞の師。『選択本願念仏集』を著した。ちなみに、読みぐせで、浄土宗では「せんちゃくほんがん - 」、浄土真宗では「せんじゃくほんがん - 」と読みかたに違いがある。
浄土三部経
かきかけ
このページでは「浄土三部経」について詳しく掘り下げていく。
経典を読むということ
問 経典(お経)とは何ですか?
経典は、釈尊の言葉を仏弟子たちが書き留めたものです。釈尊は対機説法という方法で膨大な教えを口頭で説き述べられました。釈尊亡きあと、二度の結集(けつじゅう)を通して仏弟子たちの耳の底に留まっていた言葉がまとめられました。これを文字に書いたのが「経典」です。
その文字はサンスクリット語(梵語)でしたが、チベット語・中国語などに訳され各地に伝わりました。日本には、主に中国語訳された漢文が伝わり、これを読誦することが多いです。
※なお、中国・朝鮮半島・日本へ伝わった大乗仏教の大乗経典は、歴史的事実としては後の時代の創作であり、結集を通じてまとめられたものではありません。
問 経典はどう読めばいいですか?
漢訳されている経典の意味を日本人が確かめる場合、まずは書き下しにする必要があります。平易に説明する参考書も様々にありますが、まずは本文に触れてみることが大切です。
また、東アジア仏教では、伝統的に「三分科法」で経典が読まれてきました。
問 三分科法とは何ですか?
釈道安(312~385)が考案したと伝わる(諸説あり)、東アジア仏教における経典の解釈方法。
普通、経典全体を序分(じょぶん)・正宗分(しょうしゅうぶん)・流通分(るづうぶん)と三つに分ける。
問 序分とは何ですか?
経典の最初の部分で、経が説かれる由来や因縁が述べられる。
普通「証信序」と「発起序」の2つに分けられる。
証信序はいずれの経典もほぼ同じ構成で、信成就・聞成就・時成就・主成就・処成就・衆成就の六成就を明かす。
発起序は経が説かれる固有の事情を明らかにする。
浄土三部経の概要
問 浄土三部経とはなんですか?
阿弥陀仏の浄土を主題に説かれる3つの経典のこと。
即ち
の3経典のことです。
問 浄土三部経はどのように選ばれましたか?
「初めに正しく往生浄土を明かす教といふは、いはく三経一論これなり。「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。「一論」とは、天親の『往生論』これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。」(『選択本願念仏集』『真宗聖教全書』所収, 大八木興文堂, 1941, p.931)
以上のような文章です。
『仏説無量寿経』とは
※ 本原稿では、異訳を含めたすべての無量寿経のことを<無量寿経>、康僧鎧訳を『無量寿経』と書き分けて区別する。
問 題号はどういう意味ですか?
「仏説」は釈尊の真説であることをあらわす言葉。
「無量寿」は阿弥陀仏(アミターバ、アミターユス)のことで、つまり阿弥陀仏のことを指す。
三部経の中で最も分量が多いため『大経』ともよばれる。また、上下二巻に渡ることから『双巻経』という呼び方もある。
問 大経の書誌は?
この『仏説阿弥陀経』は、サンスクリット原本、チベット語訳本、漢訳本が現存しています。
また、漢訳は伝統的に五存七欠といわれ、以下の五種類の翻訳が伝わっています。
- 大阿弥陀経(仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経)…2世紀後半~3世紀前半
- 平等覚経(仏説無量清浄平等覚経)…3世紀中頃~4世紀後半
- 仏説無量寿経…5世紀前半
- 無量寿如来会…8世紀前半
- 荘厳経(仏説大乗無量寿荘厳経)…10世紀末
真宗では康僧鎧訳の『無量寿経』を正依の経典とし、教学の基本におき、法要において読誦ます。また、それ以外(異訳経典)を傍依としてしばしば参照します。それぞれ若干の違いはありますが、全体的な構成に大きな差はありません。
1・2および3・4は特に似ている面が多く、翻訳年代も近いことから、それぞれ「前期無量寿経」「後期無量寿経」などと呼ばれることもあります。
問 大経は親鸞思想でどう受け止められていますか?
親鸞思想では、この経典を真実教とし、この経典を説くことが釈尊の出世本懐であると理解される。(なお、通仏教において、釈尊の出世本懐は『妙法蓮華経』を説くことである。)
「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。ここをもって、如来の本願(ほんがん)を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」(『教行信証』「教巻」、『真宗聖典』p.152)
『仏説観無量寿経』とは
『観経』と略される。漢訳本以外のものが見つかっておらず、本文の特徴からも文献学的見地からは中国撰述説が有力視されている。
親鸞思想では『大経』の第十九願(至心発願の願)を根拠に読まれる。
『仏説阿弥陀経』とは
『小経』と略される。
親鸞思想では『大経』の第二十願(至心回向の願)を根拠に読まれる。
真宗学とは
かきかけ
そもそも、一体「真宗学」という学問はどのような学問なのだろうか。それをテーマに掘り下げていく。
真宗学の歴史
真宗大谷大学(現大谷大学)は、1913年、東京巣鴨の地から烏丸北大路の現在地へ移った。1920年、これまでの「宗乗」「余乗」を改称して、「真宗学」「仏教学」とする。これが「真宗学」の始まりである。
真宗学の姿勢
「浄土真宗」とは何か
真宗学における「浄土真宗」とは宗派の名称としての浄土真宗ではない。「浄土真宗」を宗派の名称として用いるようになったのは近代以降で、それまでは一向宗や門徒宗などと呼ばれていた。
「真宗」とは、真(マコト)の宗(ムネ)であり、(人間にとって)大切な真実の依りどころということを意味する。清沢満之はこれを「立脚地」と表現した。つまり、真修学とは宗派としての浄土真宗についての教義を学ぶ学問ではない。人間にとって本当に大切なこと(=真宗)を探求し明らかにせんとする学問のことである。
真宗学の対象
「併しながら是からの眞宗學というのは、親鸞聖人の著述を研究するのは眞宗學でなくして、親鸞聖人の學び方を學ぶのが眞宗學である。」(『真宗学序説』 p.22)
親鸞の著述における親鸞の学び方(方法)
では「親鸞聖人の学び方に学ぶ」とはどういうことか。親鸞聖人の著作からそれを探っていきたい。
「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。」(『教行信証』「化身土巻」所収『大智度論』、『真宗聖典』p.357)
真宗学の学場
括弧内は母体の教団の宗派。