親鸞聖人の生涯
この記事はそんなあなたのために書きました。
このシリーズでは、その内実を詳しく尋ねていきたいと思います。
親鸞の生涯概論
問 宗祖親鸞聖人の生涯を一言でまとめるならなんという言葉がありますか?
真宗大谷派宗憲前文にて「宗祖親鸞聖人は、顕浄土真実教行証文類を撰述して、真実の教たる佛説無量寿経により、阿弥陀如来の本願名号を行信する願生浄土の道が、人類普遍の救いを全うする普遍の大道であることを開顕された。」とまとめられています。
丁寧に要点をすくって簡潔にまとめられていますが、予備知識がないとこれだけでは了解しづらいかもしれません。
問 親鸞の生涯を尋ねる方法にはどんなものがありますか?
たとえば、以下のよう手段が考えられます。
この記事では、出来るだけ本人の著述から紐解くことを意識していきたいと考えています。しかし、親鸞は自身の生涯をあまり語っていません。そのため、他の資料も適宜活用していきます。
親鸞聖人の誕生
問 親鸞聖人の生年は?
親鸞は1173年に京都の日野の里でご誕生されたと考えられています。幼名は若松丸。
実は、聖人自身は自分の誕生年を直接語っておられません。しかし、著書の奥書にその時の年齢が書かれていることがしばしばありますので、そこからたどることができます。
例えば『三経往生文類』。
問 親鸞の生まれた時代はどのような時代でしたか?
親鸞聖人が誕生された時代は、政治的・社会的・宗教的に動乱の過渡期でありました。
『御伝鈔』に「皇太后宮 大進 有範の子なり」。父は日野有範。大進とは正五位~従五位の中下級貴族である(三位以上が天皇の宮殿に上がることが赦される上級貴族)。
母は同時代資料がなくはっきりとはしないが、吉光女と伝えられています。
四人兄弟で、兄弟全員が出家しました。
問 親鸞自身は誕生のことをどう受け止めている?
ここで注意したいのが、親鸞聖人本人の著作においては、29歳のとき法然上人に出会うまでのことをほとんど語られないということ。
私たちは聖人がどうして浄土の仏門を歩むことになったのか、そのことに興味がわいて知りたがるわけですが、本人はそのことを殆ど知らせてくれないのです。
ただし視野を広げて「人間として生まれる」ということの苦悩についてはしばしば語っていらっしゃいます。
たとえば、主著『教行信証』の「行巻」の中で、『楽邦文類』の
ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸の頃に、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつれば、万劫にも復せず。この時悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまわん。
という文章を引用しています。
仏道への発心
問 親鸞はいつ最初の出家をしたのですか?
出家とは、これまでの生活を棄て、退路を断って仏門に入ること。
1181年(治承5年)、京都東山の青蓮院にて出家。数え年で九歳の時でした。範宴の名を名乗る。
ちなみに、大谷派で得度が9歳以上なのもこれに倣ったものです。
(『御伝鈔』によれば)叔父である日野範綱につれられて、慈円の元で出家。慈円は九条兼実(月輪殿)の弟で当時の天台座主。ただし、下級貴族の出家を九条家の天台座主が執り行なったとは、歴史的事実としては疑わしく一考の余地がある。
出家時にうたったと伝わる「明日ありと 思ふ心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かむものかは」という和歌が知られる。ただし、この和歌の初出は江戸時代であり、歴史的事実とは考えがたい。
問 親鸞はなぜ出家したのですか?
どうして親鸞はその決断をしたのでしょうか。
実は、その「事情」については、諸説ありますがはっきりとしません。
身内に不幸があったとか、当時の貴族の習慣とか、いろいろな説が唱えられていますが、確定的な説はありません。ともかく「何らかの事情」により、9歳で比叡山に出家したのです。
比叡山での修学
問 親鸞が入山した比叡山とはどのような学場でしたか?
比叡山とは最澄が開いた天台宗の学場です。もともと「一乗止観院」といい、誰にでも開かれる「一乗」の仏教を学ぶ場所でした。
三車火宅の譬喩などが説かれる『妙法蓮華経』(法華経)を説くことが釈尊の出世本懐としてもっとも大切にしていました。
当時、仏教は最上級の学問であり、なかでも比叡山はその総合大学のような場でした。
問 親鸞は比叡山でどのような修学に取り組んでいましたか?
比叡山時代の親鸞の活動については、妻恵信尼の著した手紙『恵信尼消息』にみられます。『恵信尼消息』は1921年に西本願寺の蔵にて発見されました。
比叡山では堂僧をつとめていた。
堂僧とは、堂衆と学生(がくしょう)の間の身分。不断念仏などの厳しい行を行っていました。
問 親鸞はいつまで比叡山で修学しましたか?
9歳で比叡山に入った親鸞は、29歳になるまで20年にわたって比叡山の修学に努めましたが、当時の比叡山に問題意識を感じて、29歳にて下山しました。
問 親鸞の下山の理由となった問題意識とは何か?
当時の比叡山は、(本来仏教では関係ないはずの)世俗の身分が物を言い、最澄が開山した当初の理想からかけ離れ堕落していました。
親鸞はここに問題意識をもち、真の一乗の仏教を求めました。
比叡山下山と法然との出逢い
問 六角堂参籠とは何か?
比叡山から下山を決意、六角堂へ参籠します。
道理としては理解できる、しかしそれが自らの上に実を結ばない。
六角堂は聖徳太子が建立した寺院で、久世観音が本尊。「京のへそ石」もある、京都のちょうど中心にある寺院です。
ここで聖徳太子の夢告をうけ、当時「浄土宗」を開き広く知られていた法然のもとへ向かう決断をします。
この夢告の内容については、覚如の『御伝抄』に残されていて、「行者宿報偈(女犯偈)」と呼ばれます。
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
行者宿報にてたとい女犯すとも、我玉女の身となりて犯せられん。一生の間能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしむ。)(『真宗聖典』p.725)
問 親鸞は法然と出会いどうなったか?
法然(法然房源空)の専修念仏の教えが、一乗実現の法であった。一乗実現の法としての念仏。
親鸞自身の述懐
『教行信証』「化身土巻」後序「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑業を棄てて本願に帰す。」
師法然に『選択本願念仏集』と真影が赦される。有力な弟子として。
信心一異の諍論、吉水教団で親鸞が兄弟子と信心について議論。法然の信心と親鸞の心は同じ一つの信心なのか。如来よりたまわりたる信心のため一つ。
承元の法難・関東での活動
問 法然の吉水教団への批判とはどのようなものであったか?
法然は門下に対して七箇条制誡に署名させ天台座主に提出。190名の弟子が署名。親鸞は僧綽空の名で署名。
法然教団9つの過失を取り上げる。
調停には九条兼実の次男九条良経など法然を支持するものが多くいた。
問 承元の法難とは何か?
後鳥羽上皇、熊野詣の間に女官2人が法然のもとに密通し出家していたことが判明。後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、法然が土佐へ、親鸞が越後へ流罪に、弟子四人が死罪に処される。
流罪の詳細は教行信証後序や歎異抄に記されている。ただし親鸞自身はただ仏教が弾圧された出来事として語り、女官密通ほか一連の流れについては一切著作で語らない。
流罪赦免 関東へ。
問 関東での親鸞はどのような活動をしたか?
その後、関東で教化活動を行う。その門弟の一人で常陸河和田の唯円が著したのが『歎異抄』である。
帰洛と著述
問 親鸞はなぜ帰洛したのか?
親鸞は帰洛(京都へ戻った)。
著述活動の本を求めてともいうが、
問 親鸞の帰洛後はどのようなことをしたか?
帰洛後の親鸞の活動としては、熱心な著述活動が有名。
著述活動
帰洛し著述する。
など。
善鸞義絶
帰洛からしばらくして、関東の門弟間で異議がうまれていた。混乱を抑えるため、親鸞は息子の善鸞を関東へ送る。
しかし、善鸞がさらに状況をかき乱したため、1256年、親鸞84歳の時、息子の善鸞を義絶。
この後『浄土論註』へ加点したり、法然の言行録『西方指南抄』を書写するなど、これまで味わい尽くしてきた七高僧の教えにふたたび出会いなおしている。
入滅
1262年11月28日、現在の京都市立御池中学校付近の住居で入滅。