日本仏教の展開

書きかけ。日本仏教(主に公伝~鎌倉期)の展開についての問答。

仏教公伝の時代

問 仏教は日本にいつ伝わった?

渡来人と共に6世紀初頭には伝わっていた。ただし、公伝したのは少し後。

いつ公伝したかは二説ある。

  • 538年説(戊午説)…『上宮聖徳法王帝説』等による
  • 552年説(壬申説)…『日本書紀』等による

問 日本において仏教や寺院は最初から国家と密着した存在だった?

そのようなことはなく、律令体制以前は自律的な僧侶集団が存在していた。

例えば『日本霊異記』(日本最古の説話集, 822年成立)上巻第三縁「電の憙を得て生ましめし子の強力在りし縁」は敏達天皇の御世(六世紀後半)の説話であるが、ここに「故に寺(元興寺)の衆の僧、聴して得度出家せしめ、名けて道場法師と号う。」と、寺の僧侶たちによる自己決定により出家させていたことがうかがえる。

この説話が史実に即しているかどうかは一考の余地があるが、大化改新以降の律令体制下では出家得度には天皇の許可が必要とされた一方で、かつてはそうではなかったことがここから伺える。

問 僧侶・寺院はどのように律令体制下に組み込まれていった?

様々な史料があるが、たとえば以下のようなものがある。

日本書紀推古天皇32年(624年)4月3日「一の僧有りて斧を執りて祖父を殴つ」と、僧侶による暴力事件が発生。「時に天皇聞きて大臣を召して詔して言わく(中略)悉に諸寺の僧尼を聚へて推へ問へ」と推古天皇は調査を命じる。また、僧尼を管理する僧正・僧都および寺財を管理する法頭を任する(僧都・法頭は俗人がつとめる)。さらに「其の寺の造れる縁(寺の由来)」・「僧尼の入道ふ縁(出家の事由)」・「度せる縁月日(得度年月日)」を調査する。

このようなことを通じて、徐々に国家の仕組みの中に僧侶・寺院が取り入れられていった。

※『日本書紀』該当箇所の原文

卅二年夏四月丙午朔戊申、有一僧、執斧毆祖父。時天皇聞之召大臣、詔之曰「夫出家者、頓歸三寶、具懷戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞、有僧以毆祖父。故、悉聚諸寺僧尼、以推問之。若事實者、重罪之。」於是、集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸僧尼並將罪。

於是、百濟觀勒僧、表上以言「夫佛法自西國至于漢經三百歲、乃傳之至於百濟國而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲而貢上佛像及內典、未滿百歲。故當今時、以僧尼未習法律、輙犯惡逆。是以、諸僧尼惶懼、以不知所如。仰願、其除惡逆者以外僧尼、悉赦而勿罪。是大功德也。」天皇乃聽之。戊午、詔曰「夫道人尚犯法、何以誨俗人。故、自今已後、任僧正僧都、仍應檢校僧尼。」壬戌、以觀勒僧爲僧正、以鞍部德積爲僧都、卽日以阿曇連闕名爲法頭。

秋九月甲戌朔丙子、校寺及僧尼、具錄其寺所造之緣・亦僧尼入道之緣及度之年月日也。當是時有寺卌六所・僧八百十六人・尼五百六十九人幷一千三百八十五人。

鎮護国家

鎌倉期の仏教

問 鎌倉新仏教の宗派は?

主なものをまとめると以下のようになります。

宗派名 開祖 中心寺院 開祖の主著 特色
浄土宗 法然源空 知恩院 選択集(選択本願念仏集 称名念仏
浄土真宗一向宗 親鸞(善信) 本願寺仏光寺 教行信証顕浄土真実教行証文類 称名念仏
時宗 一遍(智真) 清浄光寺   踊念仏
法華宗日蓮宗 日蓮 久遠寺 立正安国論 唱題
臨済宗 栄西 建仁寺 興禅護国論 公安問答
曹洞宗 道元 永平寺 正法眼蔵 只管打坐